カルロス

 今更なことを書く。本当に本当に今更だが、私は今、絶賛カルロス(カルテットロス)中だ。

 

カルテットと私

 

 あの、月曜の晩の高揚感。火曜の朝の幸福感。そして火曜の晩の心に広がる温かさが、ない。絶望だ。心の栄養がゴシゴシ削られて補給されない。悲劇だ。

 『カルテット』は何故だか、私の琴線に触れることの多い作品だった。カツ丼を食べる二人、たこ焼きを買ってくる家森さん、穴を愛する別府さん。本当に本当に愛おしい人たちだった。

 否定をしない、怒らないところがとても良い作品だった、という感想を、最終回の直後に読んだ。うん、そうだなあ、と思った。素直に思った。完全に同意だ。

 隣にいる人が苦しいだろうなって思うとき。今、きっと左胸の奥の方が熱くて痛いだろうなって思うとき。

そういうときに、パズルのピースをはめるみたいに、スンとした言葉を選びたい。丁寧に紡ぎたい。押し付けるんじゃなくて、そっと置きにいきたい。

そういうときに、温かいご飯を作ってあげたい。たこ焼きを買って来てあげたい。

それが、人の美しさだ。人間関係を結んで、引っ張ったりこすれたりして、そうゆう間に出来る宝だ。

 とげとげした痛くて脆いものを心の中に持ちたくない。スライムみたいに、衝撃を吸収して、何があっても壊れない心でありたい。辛いとき、ユーモアを思い出せる人でありたい。

 道のりはまだまだ険しく、理想像はまだまだ遠そうだ。

 ああ、今心が渇いてるぞと思ったら、あの優しさで繋がっている四人に会いに行こう。

吉本ばななと私の感性

 


 私の初めて好きになった小説家は、吉本ばななである。高校生の頃にドはまりして、吉本ばなな以外、読むことが出来なくなり、同じ小説を何度も何度も繰り返して読んだ。

 大学生になって、吉本ばなな以外の作家にも触れ、暫くの間吉本ばななの小説から遠ざかっていた。しかし、ここのところどうしようもなく吉本ばななの小説が読みたい。あの、深夜2時くらいの、静かでゆったりした時間帯みたいな空気に浸りたくなった。あの、強く優しい登場人物たちの愛に触れたくなった。

 そうして、本棚から『アムリタ』の文庫本を引っ張り出して、お風呂に浸かりながら読んでみたのだけれど、もう、言葉に出来ない感慨がジワーッと胸のところで広がった。やっぱり一番好きな作家なのであると、再確認した。

 情景描写の美しさと繊細さが、本当に好きで、一行に、一文に、一言に留まりたくなってしまう。うまくページが捲れない。生暖かい泥水の中にいるみたいに、うまく息が出来なくなる。ページの上に散らばる言葉が、どれも宝石みたい。泣けてくるほど美しい。

 ゆっくりゆっくり堪能しながら読んだせいで、3ページしか進まなかった。

 

 感性というものは、持って生まれたもので、自分の意志では変えることが難しいものである。私は、吉本ばななの文章に惹かれ、美しいと思えるこの感性を、死ぬまで守り通したいのだ。